『異邦人の救い』           使徒行伝11:01〜18

 今日の中心人物の「コルネリオ」(10:1)は、『絶えず神に祈りをしていた』(10:2)とあるので、彼はユダヤ教信奉者でしたが、異邦人でした(10:1)。そんな彼とペテロは交わり、教会の大問題に発展しました。10:28参考。しかも異邦人が割礼なしに洗礼を受けて救われたと言うから、割礼を重んじるユダヤ人クリスチャンから、ペテロはひどく責められました(11:2)。そこでペテロは、ヨッパで見た幻について語り、人が救われるためには、どうしたらよいかを訴えました。

1.対話的祈り
 ペテロは、午後3時の祈りの時、「汚れた動物を屠って食べよ」という幻を見ました(7)。ユダヤ人のペテロは、「清くないものを食べたことがありません」(8)と答えると、『神が清めたものを、清くないなどと言ってはならない』(9)と神から諭されました。ペテロは、人々の救いのために執り成しました(人→神)。その後、神からの語りかけに耳を傾けたのです(神→人)。パウロも自分のトゲのために3度も主に祈りました(人→神)。しかし神は、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と語りかけました(神→人)。私たちも執り成し(人→神)だけではなく、神からの語りかけ(神→人)に耳を傾けるのです。つまり対話としての祈りです。人が救われるためには、現実はどうであろうと、あきらめることなく執り成し続けることは言うまでもありませんが、神からの語りかけにも耳を傾ける必要があります。何れにしても、人の救いは祈りからしか始まりません。

2.かたよりみない伝道
 ユダヤ人であるペテロは、当初、異邦人が救われるなどとは信じられることではありませんでした。しかし幻を通して、異邦人をもキリストの十字架によって贖われ、「清められた」と知って伝道すると、信じた異邦人はユダヤ教からクリスチャンにされました。私たちは自分の中で、素直そうなこの人は救われそうだが、頑固なあの人は救われそうもないと決め込むことがあります。人の救いは最期まで分かりません。自分のことさえも分からないのですから、人のことは尚更です。関心あるからこそ反対したり、意地悪な質問をするのかも知れません。何よりも『神は人をかたよりみない』(10:34)お方なので、私たちがかたよりみてはいけません。『わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか』(18)とある通りです。パウロも、『割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ重要なのである』(ガラテヤ6:15)と言いました。救いは、反対するとか頑固だ、また罪があるとか、他宗教を信じているということは問題ではありません。ただ新しく造られることこそが重要なのです。機会を捉えて伝道しましょう。近道はありません。

 私たちは、人をかたよりみない神を信頼して祈り、伝道してゆくしか、人の救われる道はないことを知り、日々に祈り、地道に伝道する時、不思議に救われる人が起こされるのです。

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